抽象概念について:「サピエンス全史」に関して

良く人の死を看取る立場にあります。

癌は基本的に治らない。寝たきり高齢者なども、大半は看取りとなる。

換言すれば私は、同年代の日本人の中では、一番多く死を見てきたグループの一員と言えるだろう。

その観点から述べていく。

多くの人の死に立ち会った経験から言えることは、人が亡くなる前後で、世界はほぼ変化しない。死という一連の流れに関しては、人の死も、路上で雨に打たれる猫の遺体も変わりはない。猫と変わりないのであれば、猿とも、ネズミとも魚とも昆虫とも微生物の死とも変わりないと言えるだろう。

即物的に人間の身体、生死を診ていく過程から言えることは、人間も動物も変わりはないと思う。

動物は人間と変わりないとする観点を採用してみる。その場合、人間も微生物も変わりないと言える。

例えば、神聖な仏像、神殿や経典は腐食しないか。他の建物や書物と同様に腐食、虫食いなどが進んでいく。各種宗教の神聖さは、微生物や寄生虫には効かない様だ。

人間のみ特別な生き物でないと考えた場合、宗教の威力は遍く生物に及ぶのではなく、人間のみに及ぶと言える。換言すれば、神や宗教は人間同士の決めごと と言う事もできるだろう。

仮定:宗教は人間の決め事である(神などは実在しない)。

では人間の生死に価値はないのか。大きくあるというのが多くの人の人生の実感だろう。自分が死ぬ と言われて心境に劇的な変化を生じない人の方が少ないだろうし、家族や身内の死 となれば、生涯立ち直れない人も少なく無い。

この様に考える。人間は多くの動物の一種と考えるが、人間にとって、人間は特別な生き物である、そして私たちは人間である。

数ある中年男性の一人であっても、子供からしたら、かけがえのない:他に代わりのいない父親である。人間にとって人間は特別である。ライオンが、馬だろうが豚だろうが人間の肉だろうが食べても絶対的な違いはないだろう。ライオンが、ライオンの肉を食べるとすればその肉だけは特別の意味を持つだろう。

ライオンが人間の肉を食べてもライオンには大きな意味を持たないのと同様、人間が何の肉を食べても同じだが、人間の肉だけは食べることに大きな意味を持つだろう。

人間は、滅んだ種も含め多くの生物と絶対的な違いはないが、人間にとって、同じ人間はかけがえがない。

私は人の死を多く看取ってきた。

2011年の東日本大震災の、遺体安置所の体育館の光景が、海外発you tubeで流れていた。

日本では視聴者に衝撃を持って眺められたものと思う。遺体にかけられたシートの下から、

色を失った足首が多く見えていた。

死を多くみてきた者として言うと、人間の死は本来その様なものである。文化、文明によりそれを見えない様にして過ごしているのである。見知らぬ人、知っている人であっても、人の死を見て動揺する人は少なくない。だが、東日本大震災の光景を含め、そちらが本来の姿ではないかと思う。

海外もそうであろうし、特に昔の(昭和20年8月15日以前の)日本人の書いた文章には、繰り返し繰り返し、人間の生死のはかなさ というテーマが出てくる。期栄華一盃酒(上杉謙信)、白駒過隙耳(荘子)、ヲクレサキタツ人ハ モトノシツク スヱノ露ヨリモシケシトイヘリ(蓮如上人)。諸行無常諸法無我

それを文明の力によりベールの下に包んで、見えなくしているのである。すね毛の生えた、腹の出た、所謂貧弱な中年男性の身体であっても、服に身を包んで見栄えのある様にしている様なものである。

ロシアの船上で、死没者を弔う場面の映像を見たことがある。遺体や、周囲の人に見えるわけではないが、船中の乗組員が一斉に不動で敬礼していた。

人間の遺体はモノに過ぎなくなっているが(生きているときも例外と言えないと思う)、その様に意味あるものにすることによって、人間社会は心の安定を得て、存続していくのだと思った。

1000年前の平安京の城壁の外には、死体が捨てられたままになっていた。自然にすればそれが本来の姿だが、人間の心はそれには耐えられないので、そうではない様にしようということで社会はでき、進化してきた。

人間社会の思い、努力、進歩は、死の本来的有り様という物理的生物的次元とは別に、それが人間の実態とも言えると思った。物理的生物学的次元に対して社会的価値観で超越している。

ユヴァル・ノア・ハラリ氏の「サピエンス前史」でも、同様の内容が記載されていると思った。人間社会で信じられる多くの価値観(民族、性別、宗教、金銭など)について、ひとつひとつ、言わば物理的実態に即していないとして、その概念を解体していく。頼りにならない概念ともいえる。しかし、ハラリ氏は、その架空の抽象概念を集団で共有することで、ホモ・サピエンスは多くの人数の集団を構成でき、その結果文明の進歩となり、ネアンデルタール人他を凌駕していったと説いている(と理解しました)。ホモ・サピエンスの他種族に勝った点は、(架空の)抽象概念を信じる、共有できる能力にあるとしている。

私見ですが、金銭とは興味深い。世間的には、お金は、モノの価値を表す客観的基準と考える人が多いと思う。しかし、例えば金:Goldの価格は毎日変動し、長期的に上昇している。

金を定点、金銭を変数とすると、金に対して金銭の価値が低下している、といえる。

そもそも、ドル/円chartをみれば、金銭同士の価値観が、毎秒更新されている。

モノのより客観的価値と思われている金銭も、相対的指標に過ぎない。社会的決め事である、ともいえる。金銭は人間にしか効果を発揮しない:金銭は形を変えた人間関係 ともいえる。

敷衍すれば、価値とは人間関係:人間と人間あるいはその集団が共有する概念や感情:と言えるかも知れない。

話が戻るが、ハラリ氏は多くの宗教の物理的矛盾を指摘していくが、仏教に対してのみ、矛盾がない、という趣旨で記載しているのが興味深い。

私は人文の系統的勉強をしておらず、浅学のため的外れや当たり前のことを述べているだけであれば、深謝いたします。

 

結語:物理的に人間の生死は儚いが、そうでない様にしていくことが人類の歩みであった:人間の歩みは生の意味を肯定する事そのものであった。