客観的指標について

詳しくはない。メートル法と言うものがある。成立は1891年頃であり、距離の測定を、制定時点での地球の長さを分割して行うものである。その際に、度量衡、及び時間の測定法が決められたと理解している。いずれも、地球の大きさや自転速度などを分割して行ったものと思う。

それ以前の時代(前近代)には、度量衡の測定は、人間の身体に即して行われていたと理解する。1feetとあるのは、footつまり1歩の長さと言うことではないかと理解している。間違っているかもしれない。日本では尺貫法と言うものがあった。1寸は指の長さだろうか?1尺は前腕の長さではないかと思っている。多くの数の表記が10進法であるのは、人間の手指が10本だからだろう。

時間は暦についていえば、日本では朝廷が定めていた。改元もそうであろう。

これは、時間の測定法を管理する、とも言えるが、比喩的には時間の流れを管理しているとも言い換えられるかもしれない。太陽の昇る速度を計測する。とも言えるが、暦を定点とすると、太陽の昇る速度を管理しているとも言える。

どれくらいかの昔には、天候不順などの原因を君主の不徳に求めたり、日食を理由として王様が民衆に殺される、などの話もあった様である。日本のは太陽の子孫であると考えられていたため、太陽の動きを決めることができた、と意訳することも可能かもしれない。

太陽の子孫と言う事であれば、全ての生物のエネルギー源は太陽であり、太陽光エネルギーから、生物学的位置エネルギーであるATPが生成されることになり、生物の進化及びその活動が始まって行ったため、全く事実でない、とは言えないだろう。

時間と言うことに話を戻すと、例えば多くの人は、100年というと長い時間と思うだろう。

何故かというと、人間の寿命が80年くらいだからではないかと思う。Dog yearと言う様に、人間の寿命が10000年あったとすると、100年などはいまの1年程度の感覚で受け止められるだろう。つまり時間についても、身体感覚でとらえているということである。

物事に客観的指標があるかという点について、上記の点から、留保をつけて捉えたいと思うのである。