安倍元首相逝去で明らかになる日本の衰退

https://courrier.jp/news/archives/294511/

https://dot.asahi.com/dot/2022071200026.html?page=3

下のリベラル

人生に詰んだ孤立した中年男性=無敵の人
この様な男達によって私たちは苦しめられてきた。
伊藤さん事件も想起する
という内容

人間関係に詰んだ人への嫌悪が基調にある。
この点には自己責任の様だ。
自己責任は一つの理論だが、例えば、学歴で不利益を被る人 に、自己責任と言えばそうかも知れないが(親ガチャ云々出すまでもなく私は賛成しない)、それで苦しむ人を馬鹿にしたり非難するのは、多くの人が酷いと感じるだろう。

「女子から嫌われるようなタイプでもなく」
これも多分に生得的で、努力で改善できる範囲は限度があると思う。
男女逆でこれを言えば、人倫にもとるレベルの批判があるだろう。
生理的嫌悪感が、倫理的批判に結び付いている、と言うことはないのだろうか、そうであれば落ちこぼれた人を追い詰めるのではないか??
意見は自覚的なものと、潜在意識からのものがある。後者は、他人のほうが良く見える、ということもある。考えて頂きたいと思います。

「成人してからの人間関係がこの人にはほとんどないのか……と思うほどに、友人や知人の声が出てこない。」
こちらも、人間関係、社会ステイタスから一度落ちこぼれると、経済、社会的資本に(人はパンのみにて生きるにあらず)回復の見込みがない と言う感覚への理解が薄いと思い、
リベラル=エリートの見下しに感じる人は少なくないだろう。
私はそう感じました。 

 

映画jokerと同じ文脈だが
上の独紙
の言う通り、今回の土壌に、「他者への無関心は私達社会全員の責任ではないか」という論はありえる。
下のリベラルの自己責任論が象徴ではないか

アレクシス=トクヴィルは、個個人が社会と自分は関係ない とすると民主主義はなりたたず、多数派の専制に堕するとする。
19世紀アメリカのデモクラシーについて、
宗教とか、結社と言った非民主主義的側面が個人と社会を接続し、民主主義を支えているとする。

日本に当てはめるとどうなるのか

1945年から国が死んだままで個人が生きるのは限界ではないかと言うことではないかと感じる。

ジブリもののけ姫 映画がある。
森の神が死んでしまい、動物達は言葉を喪ってただの動物になってしまう場面がある。作者の自覚的意図はどうあれ、私は戦後日本人を見てしまう。